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 程よい疲れを体中に感じながら、修平は院長室の椅子にもたれ掛かっていた。1階からは、また穏やかな空気が流れ、いつもの雰囲気が漂っている。時折、にこやかな笑い声が聞こえる。それにしても、さっきの光は、いったいなんだったのだろうか。まるで映画のワンシーンのように、何処かから放たれた一条の光が、輝きを増して術野を覆い尽くした。その光によって、グローブの中の手が暖かくなっていった。そのぬくもりが、今も両手に残っている。不思議な感覚に包まれたまま、両手を見ていた。

 

いつか、人里離れた森深い隠れ家で、ぼんやりと森の木々を見つめながら思い描いたことが思い起こされた。

こんなことが、実は本当にあり得るのだと修平は思っている。

 「冷たいメス」と「あたたかいメス」。

ただ、ステンレスの替え刃式のメス。触れば、ただ冷たいだけの、鋭く切るために研ぎすまされたその刃。物を切るための、ただの道具に過ぎないが、そこに温度が生ずるのだと。手術器具は単なる切除のため縫合のための道具ではなく、命を紡ぎ治してゆく、その力を注ぎ込む接点になるのだと。どんなに力をつくして、どんな最良の治療を行っても、助かる子と助からない子が存在する。手術の善し悪しなんかではなく、もっと違う次元で何かが存在する。それが現実だ。

「あたたかいメス」、私のメスは、どんなメスなのだろう。

決して、その病気だけを診るのではなく、その臓器だけを見るのではなく、その子のいのちを治してあげられるメス。広い視野で、病気を見つめ、動物を診る。かつて、若さと負けん気に勢いを借り、ただ突っ走っていた頃の自分があった。そんな一番大事なことが欠除していた時期が、自分にはあった。だからこそ、今わかるのかも知れない。触れば、ただ冷たいだけのメスの刃。しかしあたたかい心で、やさしい心で持つメスからは、飼い主からの願いや、獣医師のこころが、伝わってゆくのでは・・・。そんなバカげたことを、科学者の言葉ではないような事を提示しながら、やはり、何処かで信じている。願わくば、私のメスはあたたかいメスでありたいと・・・。

 

 手術後の経過は一進一退であった。無理もない。あんなに大変な手術を、乗り越えたんだ。食欲も戻らない。発熱はないが、元気もない。寡黙な爺さんを決め込んでいるのか、辛いのを我慢しているのか、さすがの修平も計りかねる日が続いた。例によってまた眠れない日々が続く。

しかし、加津子の面会の時だけは、その態度が日に日に変わっていった。入院室では見せない生気が、徐々に溢れていった。

手術して1週間。まだ早い気もするが、ふさぎ込んで入院するよりは、大好きな飼い主のもとで安心する方が、よほど病状には好転をもたらすだろう。絶対安静を確約させながら、退院させてみよう。話し合いのもとで、退院が決まった。

  しかし、退院後、5日目で事態は急変した。

リックを抱きかかえたまま来院した加津子が、いきなり訴えた。

「先生、うちの子、楽にさせてあげて。」

修平はその突き刺さるような瞳を、思わず見つめ直した。

「このまま苦しんで、痛がって死ぬなら、早いうちに安楽死して下さい。」

それが、この子のためかもしれないから。あんなに大きくなるまで気が付かなかった。どうしてもっと早くに連れて来なかったのだろうか。

苦悩の日々はあれからずっと続いていたのだろう。

事の真相は、こうだった。退院した翌々日は、病院の休診日。食欲は、退院してからも相変わらずなかったが、処方された経腸栄養食をなんとかなめる程度で与えていた。内用薬も出されたが、食欲がないために飲ませているようないないような状態だった。しかし、その日、水を飲んだ後に急激な吐き気に襲われた。おなかが急に膨らんで、その後何度か吐いてうずくまってしまった。慌てて近所の動物病院に駆け込んだ。そこで、こんな風に言われた。肝臓癌で手術したって、治る訳がない。手術して苦しんでいるなら、今すぐにでも楽にしてやる。今、この場で楽にしてやる。

最後の手をかけるのなら、あなたではなく、あの先生にしてもらう。そう言って、飛び出してきた。

だから、ダメなら、楽にしてあげて。

 

一通りの話の後、その言葉を遮るように修平は話を始めた。

気持ちはわかった。どれだけこの子のことを考えているのか、どんなに思っているのか、よくわかった。辛いその状況を、なんとかしてあげたいその気持ちは、痛いほどにわかった。

ならば、一つだけお願いがあるんだ。あなたの、リックと一緒に過ごしてきた時間と苦労の重みが少しだけでも分かるつもりでいる自分だから、あえてお願いしたいことが、たった一つだけあるんだ。

もう一度、いままであなたの悲しみや辛いできごとを、一番聞いてくれたリックのために、その長い時間を一緒に生きてきたリックのために、どうかもう一度思い出してくれないか。そして、今度はリックの苦しさや辛さを、どうか一緒にわかって、一緒に苦しんでやってくれないか。楽にするのなんて簡単なことだけど、それでお互いが楽になるなんて私には思えない。辛いだろうが、リックの痛さを、感じてくれないか。力は足りないが、私も一緒に苦しもう。

 

 その日から、彼女は立ち直った。苦しみを分かち合う、その言葉に一日一日と、彼女は生きる力を蘇らせていった。そして、不思議なことにリックの状態も少しづつだが、確実に上向きになっていた。吐き気は止まり、腹水のためパンパンだったお腹は日に日に小さくなり、ほとんどなかった食欲がゆっくりだが出始めて来た。目の輝きが戻り始め、顔つきや動きの中に、生気が戻って来た。彼女の迷いから解き放たれた祈りが、リックの枯れかけた命へ水をやるようにしみ込んでいったのだろう。奇跡を起こしたのだろう。

「先生、リックがササミを一切れ食べたの」

「先生、リックがね、かまぼこを食べてくれたの」

「先生、散歩に行きたいって言うのよ」

日いちにちと、状態は上向いていった。

散歩も少しずつではあるが、出来るようになって行った。

「先生、今日はね、リックが散歩に行くって私を引っ張っていくの」

「ご飯をくれっていって催促するんだよ。」

「先生、今日はね、1時間も歩いて行くの。自分でコースを決めて、まだ帰らないって。」

その無表情なリックとは裏腹に、日々の報告を告げる彼女の喜びようは、太陽のようにまぶしかった。見事な夕日が落ち静かに暮れてゆく街並を、二人寄り添ってゆっくりと歩いてゆく、そのシルエットのようなうしろ姿は、今でも私の目の奥から離れない。

穏やかな日々が続いていた。一時期は死を宣告され、絶望の淵に立たされた時期のもあったが、あれから暑い夏を越え、穏やかな秋を過ごし、少し厳しい冬を越し、寒さがゆっくりと緩んでいった。毎日が、日々が、悠々と流れ、かけがえのない日々が、昨日、今日、そして明日と続いた。

その間、リックと彼女の間には、本当に濃縮された時間が、ゆっくりと、ゆっくりと流れていった。何ものにもかえがたい日々が、一日、また一日と繰り返された。

短かい、悠久の時が。

 

獣医師がどんなに最新の知識や技術を学び、研究し、仮にそれを自らの技術として得られたとしても、実は到底計り知れない、命の重さがそこにはある。その重さと対峙して、自分たちにいったい何が出来るだろうか。自分の力の未熟さを、思い知る。そして、予測の出来ない冷酷な結果が、いつかやってはくるのだ。しかし、あたたかいメスで、願わくばその病を巣食う心を癒すことが出来るなら、せめてもの瞬間であろうが、それ以上の幸せが、あるだろうか。自分達に出来ること実にわずかで、限りあることばかりだけど、心ある医療を私は続けて行きたい。

 

そんな時、リックのために、歌が作られた。曲名は[Rick]。ガットギターで綴るボサノバ調のその曲は、二人が共に過ごした14年の年月がそのまま凝縮されていた。

あなたと一緒に大切な時間を過ごした。

あなたの涙を見つめて、

あなたのつぶやきを聞いて、

いっしょに歩いた。

そして、うららかな夕暮れの中で、

旅立つボクを、そっと見守って。

「やあだ、この唄。リックが死んじゃうみたいで、やあだ。」

ママはそうカラカラ笑いながら言って、瞳を濡らした。

そして、手術から11ヵ月後・・・。

そのやさしい旋律が流れる店の中で、リックは静かに旅に出た。丁度、このショットバー「ブルー・トマト」が開店して1年目の記念パーティーのその日、昼頃から日向ぼっこが出来る窓際の一角、その指定席で、そっと寝息を立てるように、静かに静かに目を閉じた。

安らかな寝顔だった。

街には、どこからともなく、ほのかな香りが静かな風の中に漂っていた。

早咲きの沈丁花が、もう何処かで次の春を告げていた。

 

いまでも、寡黙な爺さんの生き様は、皆に語り継がれている。

ボーカルは、作者のシブく味のあるShinさんから、透明感のある華やかなAiちゃんにわかったけど、確かに歌い継がれている。

 

本当の獣医療のあり方を、あたたかなメスの神話を私に教えてくれた、偉大な犬であった。僕は忘れない。

​後編 悠久

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