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 その日は、穏やかな3月の一日だった。暗くどんよりと昨夜の遠くから響き渡る春雷、そして激しい雨、凍り付くような冷たい風。まるで冬の再来かと疑いたくなるような昨夜からは、想像もできないような日だった。さわやかな陽気に包まれ、そよぐ風に乗ってどこからともなく沈丁花の甘い香りが漂っていた。それでも朝の外来はひどく込んでいた。心疾患のため咳が止まらないマルチーズや、外猫とのケンカのあげく、ビッコを引きながらも武勇伝を語りたげな古傷だらけの爺さん猫、生まれたばかりでミルクも飲めないような仔犬、かと言えばまだ3月だというのにノミだらけのやせ細った猫、骨肉腫で片腕の切断を余儀なくされながら3本脚で上手に歩いて来たゴールデンレトリーバーやらが、ひっきりなしに出たり入ったりしていた。その中をリックがゆっくりと入って来た。誰に愛想を振るう訳でもなく、今日の手術の不安など微塵も感じさせず、悠々と静かに歩いて来た。動物看護士の小島がそれに気付き、すかさず「森さん、今日はリックちゃんの手術で入院ですね」と声をかけると、待合室にいる皆がリックの背中を見つめる。

「先生、お願いいたします。」

向かえた修平の顔は、いつもの院長のやさしい目をしていた。だけど、しっかりと加津子の目を見つめ、穏やかに話した。

「全力を尽くしますからね。お預かりいたします。」

大勢の外来の中、その目もはばからずに、深々と、深々と、加津子が頭を下げた。

 

 外来の合間をみながら、午後の手術の用意は粛々と進められていた。体温測定、腹部の毛刈り。肝臓を中心とした手術部位は広くなる。どんな場合にも対処できるように剃毛は広範にしなければならない。お腹を中心に、前は腕の後ろから後ろは脚の付け根までがバリカンで刈られてゆく。そして点適用の腕の毛刈り。次は再度の血液検査、心電図検査、胸のX線も2枚。一通り終わった後で、左腕から点滴が入れられる。それからやっと入院室へ。寡黙な爺さんは、嫌な顔ひとつしない。ねぎらいの声をかけると、やはり、しっぽを一振り。それだけで十分。頭を少しだけ、なぜてやる

「リック、がんばれよ。」

 

 午前の診察が終わり、昼飯をかき込むようにして短い昼休みが終わった。

和やかだった病院の空気が、一変する。緩やかな空気が、加速度を増して慌ただしく流れ始め、風に変わって行く。手術台の横には、麻酔薬、鎮痛剤、抗生剤、止血剤などの注射が何本と並べられている。麻酔器の電源が入れられる。無影灯の電源が入れられ、手術台の上は、影のない舞台に変わる。時を待たずして、主役が登場した。麻酔の前投与が効いているせいか、眼は少しうつろだ。並べられた注射器の一つが獣医師の佐伯の手に取られ、点滴のラインからその白い薬剤が注入された。一つ、二つ、三つ・・・八つ目を数えるか否か、主役はすーっと眠りに入った。

「よおっし、気管チューブ挿管」

この瞬間から、主役は交代だ。

体位を仰臥位に変え、手足は包帯で手術台の四隅に止められた。術部の皮膚がイソジンやアルコールで念入りに消毒されて行く。やがて何度目かのイソジン液で術野が茶色に染まった頃、頭のてっぺんからつま先まで、ブルーの手術着に包まれた新たなる主人公が、助手の佐伯と器具出しの金子を従えて舞台へ登場した。

それぞれが、無言のまま、配置に付く。術野のみを残して、何枚もの青色の無窓布が全てを被いつくしてゆく。頭、前肢、胸、後肢そして手術台。やがて、青色の平原の中に、茶色のステージのみが映し出された。

 

 「メス」

 

 差し出された修平の手に、ピシッという音と共に鈍色のメスが佐伯から手渡された。手術室の空気が、一気に張りつめる。青い無窓布に全身が覆われ、切開予定の手術部位だけが無影灯に照らし出されて、光彩を放っている。そこだけが影のない世界を作り出している。新しい主役が、やがて縦横武人に踊り出す茶色のステージだ。修平の右手がその影のない世界へ一直線に入り込む。ペングリップに握られたメスの刃が、キラリと無影灯の光を反射した。胸骨最後部、剣状突起上部の皮膚にすーっと、吸い込まれるように動き、ほんのわずかだけ静止する。ほんの一瞬。

「それでは始めます」

その言葉とともに、メスの矛先がイソジンで消毒された皮膚に吸い込まれた。

「1時5分です」

器具外回りを務める小島が、追って答えたその言葉が終わるのも待たずに、修平のメスが一閃を放った。胸骨剣状突起後方より臍下方まで、およそ25㎝の切開が一刀のもとに終わった。

「メッツエン」

心電モニターからの心拍数を知らせる電子音、呼吸モニターの血中酸素濃度と呼吸数を知らせる電子音、ベンチレーターから発せられる人工呼吸を行っている電子音など、いくつもの機械音を破って修平の声が、響く。

「アドソン」

「アリス」

「アリスもう一本」

「モスキート」

「電気メス、ここ焼いて」

一瞬の間もない、矢継ぎ早に出される指示。そしてそれと同時か言い終える前に、修平の手には器具出しの金子から、様々な器具が手渡される。瞬きも出来ない。わずかににじみ出た出血さえ、修平の両手が別の生き物のように様々な角度からガーゼ、鉗子、電気メスを携えて飛んで来て、確実に止めて行く。助手に立つ佐伯の手は、修平のあらゆる角度から飛んでくる両手の間をかき分けて術野に入り込み、的確に補助をしてゆく。次に動く執刀医の行く手がわかっているから、絶対にぶつかることはない。次にすべき動作が身体にしみついている。何度も、厳しい局面を切り抜けて来た、何度も修平の手術をその目で見てきた。修平に鍛えられて来た賜物である。

修平は、手術着を来たとたんに、人が変わる。

まず、本当に無口になる。

これは、おそらく修平本人は気が付いていない。まわりに立つ皆は暗黙にわかっていることだが、特に何年も修平のもとで下積みをしてきた佐伯には、痛烈に身にしみている事実だ。

この人は、このために生きている、とさえ思える時がある。昼行灯。書類は、おおよそ完璧にこなしたことがない。どこかが抜けている。それが重要書類とわかっていても、決まって、どこかが、ポツリと間違えている。ヒゲは剃らない。剃ることを忘れている。思い出したように、いつか剃ってくる。でも、無精ではない。私服も、だらしがない訳ではない。それなりに、スッキリしている。でも、頓着がない。金銭感覚は? この人は、この薬がいくらで入っているのか、この注射の原価は一体いくらなのか、ほとんど知らない。いや、正確には、知らない訳ではない。正確な表現では、おおよそこれくらい(じゃないか)、と認識している程度。ある薬は、原価割れの値段で何ヵ月と処方していた。売れば売るだけ損。院長がこれで、病院が成り立ってゆくのが不思議なくらいだ。そんな昼行灯が、手術になると目つきが変わる。水を得た魚の様。誰も止められない。初めての手術だって、いとも簡単に平然とやってのける(ように見える)。ある時は教科書に忠実に、そしてある時は教科書になど書いていないことを何気なくやっちまう。直球、変化球、時には予測つかない魔球を投げてくる。それでも、見事に決まってしまうのは、この人の天性だろう。あきれたもんだ。ほんとうに予測不可能。それは、窮地に追いやられた時こそ、その本髄を見せてくれる。走馬灯のように、佐伯の頭の中を修平の姿が回っていった。

切皮から20秒。皮下織が剥離され、正中を直線に貫く白線が浮かび上がる。そして、その中心部分には醜く膨隆した臍部がはっきりと確認できる。いよいよだ。そこにどれほどの悪魔が潜んでいるのか。見かけだけの小悪魔か、それとも巨大化した邪悪な魔王なのか。

「メス」

ふたたび修平の声が響く。

「腹膜切開」

「メッツエン」

迷いない刃先の舞いの中に、剣状突起のやや後方、普段ならば胃の大湾が見える位置、大網に包まれた悪魔がついに出現した。大きい。肝臓は、通常赤褐色を呈しており、動物では最大の臓器である。胃の前方、胸との境界線である横隔膜に挟まれる形で、犬の場合には、内側右葉、外側右葉、内側左葉、外側左葉、方形葉の6つからなる。通常であれば、肋骨と横隔膜からなる肋骨弓に収まっている。しかし、リックのそれは、明らかに肋骨弓の後方へ飛び出ており、しかも、表面は凸凹で不整な球形状を呈している。大網を右側下方へ、胃を左側前方へ押しやり、肝臓の背側面へ右手を入れ、肝臓全体を持ち上げてみる。これによって肝臓全体が肉眼のもとに初めて観察される。それは、直径が13㎝、ソフトボールより一回り大きい程の塊だった。まさしく、誰にも知られぬ暗く深い闇の中で、かけがえのない命を貪り醜く巨大化した第六天の魔王の姿であった。誰もが白昼のもとに曝された巨大悪魔に目をみはり、絶望のため息を押し殺していた。声が発せられない。絶望の眼差しで魔王に屈していた。 しかし、修平の目だけが止まっていない。その時修平の目が捉えていたのは、悪魔そのものではなかった。巨大腫瘍が生えているその奥を、縦横、左右とそっと包んだ右手の角度を微妙に変えながら、肝臓全体を凝視していた。そして、開創器で大きく開いた腹腔に修平の両手が手首まで入っていった。まるで触手のように見えない腹腔内を探っている。やがて、その両手、その両眼が、ピタリと止まった。ゆっくりと修平の眼が閉じられる。

・・・5秒、8秒、そして10秒。まるで閃光のように、全てをつんざき切り開いてきた今までの動きが、魔王に屈してしまったかのように、全ての動きが止まった。無惨に降伏したかのように思えたその瞬間、両手を引き出しながら、修平が語り始めた。

「発生部位は、内側右葉。ソフトボール大まで腫大している。幸いにも、肝門部からは若干だが離れている。他には、外側右葉に3つ、、外側左葉に1つの小シストがみられる。おそらく同じものと考えていいだろう。腹腔内リンパ節への転移は、肉眼では観察できない。ただ、肝門リンパ節への転移はないとは言えないだろう。どうするか?」

「・・・・・・」

沈黙が流れる。

「院長、無理なのでは・・・。」

佐伯の消え入りそうな声が、静まり返ったオペ室に響く。

「電話をしてくれ。森さんにだ。」

踵を返して、小島がオペ室を出て行く。後を追って、修平が続く。

「もしもし、森さんですか? 今、リックちゃんの手術中ですが、手術方針について院長からお話があります。院長に代わります。」

 

   全身にまとったブルーの術衣、帽子、マスク、グローブ。グローブを装着した両手は胸の前で合わせたままの状態で、少し傾けた首を傾けた修平の右耳に、小島が受話器を押し付けてくれている。

 森さん、落ち着いて聞いて下さい。今リックの手術をしていますが、腫瘍塊はやはり肝臓でした。ただし、非常に大きいんです。ソフトボール位はあります。取れない場所ではありません。しかし、腫瘍塊は1つの場所ではなく、肉眼で見ただけでも5つはあります。これらを完全に取ったからと言って、取り切れたとは言えない状況でしょう。すでに目に見えないところまで入り込んでる可能性は十分にあります。このまま摘出はせずに、閉めるという手もありますが、どうしますか?

修平は手術の説明をしながら、その突きつけた無情の難題に、加津子が答えを出すには少し時間がかかるだろうと思っていた。自分だったら、どうするだろう。そこまで行っていたのか。何故気がついてやれなかったんだろう。どうすればいいのか。どうすることがリックにとって幸せなんだろう。答えは出せるんだろうか・・・。しかし、1週間前、肝臓腫瘍を宣告されて動揺し、自分を見失ってしまった美津子は、すでにそこにはいなかった。第六天の魔王に厳然と立ち向かう勇者のような気迫に満ちていた。

「先生、1つでも可能性があるのならば、リックが少しでも楽になるのならば、その方法に賭けてみたいんです。無理は承知ですが、手術をして下さい。出来る限りの事を尽くしてあげて下さい」

「わかりました。頑張りましょう」

 

 電話のある処置室から、手術室へ戻った。魔王と対峙する。わずかな時間、ほんの数メートル。しかし、リックの前に再び立った修平には、美津子の勇者の心が乗り移ったような感覚に包まれていた。その両腕に、力がみなぎる。その心に暖かい慈愛が満ちあふれる。両眼から、迷いが消えていた。

「手術再開だ。これより内側右葉の全切除術、および外側右葉、外側左葉の部分切除を行います。」

気迫に満ちた修平の言葉が、淀んでいた絶望の闇を切り裂く。

「ケリー」

「摂子、デベイキー」

緊張感が、また手術室に充満して行く。スタッフ全員の力が、みなぎって行く。最大限に研ぎすまされた全員の感覚が、ひとつにまとまって行く。

これがアトムの力だ。

絶望を切り開いてゆく、無限の力だ。

誇れるもの。決して大きな動物病院ではない。有り余る器具機材がある訳ではない。十分なスタッフの数がそろっている訳でもない。でも、ここには、病気に立ち向かう強い意志の塊が、困難を乗り越えよとする熱い思いが、それぞれの胸にあり、それは、ひとつに集約する。そう、修平の両手に集約する。それは、誰にも負けない、どこにも劣らない。それこそがアトムの力だ。ただのスタッフではない。一人として無駄なものはなく、偶然ではなく、すべてが、その時々、その大切な命のために集まった大事な勇士なのだ。

止まりかけた風は、再び渦となって、激しく回り始めた。器具出しの金子が結紮用の3-0絹糸を何本も用意し始め、次に必要とされるはずの手術器具の数々を手渡ししやすい場所に並べる。そのいくつかを受け取った佐伯は、どんなに頑張っても追いつけない程の指示を出すだろう修平の要望に備え、散らかってしまった術野の回りを整え始める。そして小島は、このままでは絶対に足りなくなる滅菌ガーゼの補充、摘出した肝臓を受け取る膿盆を用意し、洗浄用の生理食塩水の加温と吸引用のサクションの用意を始めた。修平の指示は何一つない。ただひとり、黙々と術野に集中していた。無口になり、何ひとつ発しない中に、それでも一人ひとりが次になすべき作業が急ピッチで開始され始めていた。この次に動き始めたら、誰も、修平について行けない。この一瞬のうちに出来る限りの用意を整えなくてはいけない。修平の手を止めたくはない。そう思うと、誰もが無口になった。

用意は済んだ。

さあ、このまま一気に内側右葉の切除だ。修平が、動き始める、スパートが来るぞ、誰もがそう思った矢先だった。

修平の手が、ピタリと止まった。

剥離を続ける肝臓の奥を凝視したままだ。

無口になった修平が、言葉を発する。

「外側右葉の腫瘤は、肝門部ぎりぎりまで入り込んでいる。このまま切開を進めれば、マージン不十分で閉じるか、大量出血になるかだ。今回は血流遮断法にて完全摘出を目指す」

予想をはるかに越える事態だ。大丈夫か?、いや、大丈夫だ。修平に付いてゆくしかない。迷いはない。

「はいっ」

皆が一同に、応える。

「小島さん、血管用セットを開けてくれ」

「わかりました」

ただちに、血管用の特殊な器具をまとめた外科セットが、器具出しの金子のもとへ渡された。

その頃合いを見計らって、修平が声をかける。

「デベイキー鉗子とブルドックデベイキー。臍帯テープとシリコンチューブも用意して」

いよいよ、魔王との戦いだ。これからが、勝負だ。修平の瞳が、眼鏡の奥でかすかに光った。肝臓前後の後大静脈と門脈が、次々と剥離されて行ゆく。臍帯テープが通される。そしてこの臍帯テープを、少し太めのシリコンテューブの中に通して行く。ルーメル駆血帯と呼ばれる、血管壁の薄い静脈系を遮断するための手法だ。続いて横隔腹静脈の剥離・結紮、さらに胸部大動脈、腹腔動脈、前腸間膜動脈が剥離された。これらの大血管の剥離は、一見簡単そうに見えるが、実は、そこから予想外の細かな副枝が出ている事がある。大血管の大雑把さに目が慣れていると、とんでもない出血を引き起こしてしまう。大胆な中にも、実に細かな注意が必要になる。しかし、それは助手の佐伯にも、まして器具出しの金子にはわかるはずもない。

「時間を計ってくれ。いくぞ」

その合図とともに、ブルドックデベイキーによる胸部大動脈の遮断が行われた。修平の両手がさらに回転を始める。主要血管に掛けられたルーメル駆血帯が次々と締められてゆく。全肝臓血行遮断による肝葉切除は、遮断時間を15分に抑えなければならない。肝門部で、血管と胆管が分離され、それぞれに二重結紮が施される。後大静脈と密着している右葉の剥離は、決して簡単ではない。しかも、15分というタイムリミット付きだ。単純なミスさえ許されない。

動き始めた。

もう、誰も止められない。

修平の両手が、高速に動き始める。

 

その時だ。

光が放たれた。

無影灯のハロゲンが作り出す無機質の青白い術野に、暖色系の光の束が生まれた。それはひとつの光の塊。まるで、ひと塊の小さな太陽が、手術しているその部位に現れたようだ。術野から、修平の左右の人差し指、中指、親指、すべての指から一条の光が解き放たれ、次第にひとつの塊となって、回りに放射してゆく。全てから光が幾重にも放たれ、あたたかに全てを包み込んでゆく。慈愛の光だ。加津子の願いの結晶なのかも知れない。それが修平の身体と心、リックの身体と心、全てが一体となって共鳴し、この光を作り出している。そう、主役は修平ではない。むしろリック、お前が主役なのだ。命の光を取り戻せ。輝き直すのだ。

 

 手術は終わった。さすがに覚醒は悪いが、順調である。不思議な位に・・・。母さんからの祈りが届いていたのだろう。痛い程に感じられた。13歳の年齢で、よくぞあの手術を持ちこたえてくれた。肝臓の血流遮断時間は、14分30秒。その後、外側右葉と方形葉の部分切除が行われ、ドレーンの設置をし、閉腹。手術時間は、メスを入れてから2時間25分。そんな大手術に耐えてくれた。よく頑張った。さすがにリックだ。

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​中編 閃光

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